最近夢を見ないのは

夢と言っても、いつかあれをやろう的な夢ではなく、夜寝ている間に受動的に見る方の夢の話です。

私は昔から寝ればほとんど夢を見ます。カラーなので、モノクロの夢に憧れました。そんな風に世の中を見たことがないから、一回モノクロで見てみたい。どうも最近昭和歌謡?率が高くて申し訳ないですが、さっきハナレグミがカバーしてる「接吻」(元はオリジナルラブかな)が流れていて、「やけに色のない夢を見る」っていう歌詞が印象に残りました。現実の鮮やかさとの対比がいい。でもそういや最近、モノクロどころかどんな夢を見たか全然覚えてないなぁと思い、夢に思いを巡らせた次第です。土曜日の、暇な子の夜って感じでしょ。

私が見る夢は大概どれも鮮やかな映像で、ドキドキしたりハラハラしたり、激しい感情をかきたてるお話になっていて、物理法則を無視するから一大スペクタクルです。あるときは、小学校の長い廊下を電車で疾走して、端っこの壁を突き破った勢いのまま空へ飛びだして夜空へ。銀河鉄道の夜の影響が色濃いですね。(ちょっと脱線しますが、あの話に出てくるとある停車場だったか、水が透明すぎて手を浸さないと水があることもわからないくらい透明度の高い川の話がとても好きで、綺麗な川を見ると思い出します。)あるときは、特殊戦闘員として潜入したイスラエル(あたり)の秘密基地の小部屋がそのまま宇宙へ発射されてしまい(宇宙好きですね)、空気がなくなって、隕石もぶつかって、大ピンチ。無重力空間にうかぶ隕石に穿たれた同僚の屍がゆっくりとこっちを向く、、はい、ゼログラビティですね。まんまですね。どうやら怖くて印象に残ったようです。そしてあるときは、女剣士に扮してRPGを地でいくダンジョン攻略。中盤で敵に攻められ討ち死にを覚悟。自分がかけてるスカウター的な眼鏡の左上に自身のHPが表示される仕組みになっていて、その数値どんどん減っていき、あ、ゼロになった、と思ったらブラックアウト。フィクション感満載ですが死の疑似体験として印象に残ってます。それに近いのが事故にあって手術をする夢で、意識を失って病院で目を覚ましたときに、周囲の反応がおかしい。私の顔を見ようとしない。どうも事故で私の首がとんだらしく(アンパンマンのように。何事だ)、とっさに“違う顔”をつけたことを言い出しにくくて遠慮してたらしい。顔が変わったなんたさすがに私もショックだけれど、せっかく生きているのだし、周囲の親や友達を心配させたくなくて、空元気を出して鏡を覗くと…全く知らない女の子の顔。朝日がたくさん入る明るくて清潔な病室で、健康的だけどとくに美人でもない、新しい私の顔。これはちょっとぞっとして起きました。自分の顔なんて、と思いつつ愛着をもって拘っていることを再認識。一方、全く動きのない夢では、ただひたすら航海をする船の上にて、凪いだ海と船の舳先がゆらゆら揺れる映像がずっと続くというもの。これはたぶんその時読んでたゲド戦記(二巻)で長い航海シーンがあったからで、途中で読むのをやめて寝たから、律儀にずっとそのシーンで停まってたんだと思います。芝居の中休みみたいだな。

あの、以上でオチはなくネタは尽きたのですが。こういうスペクタクルな夢を最近見なくなったのは、日々に終われて現実の方がビビッドなのかもしれない、と思いました。昔はとにかく起きたくなくて、ずっと寝ていたい、毎日つまらないと思っていたから、よいことかもしれません。が、夢は夢で面白いので、ちょっと残念です。

今ふたたびの「負け犬の遠吠え」

書店にて。タラレバ娘の最新刊と、CREAの「ひとり温泉」特集と、CLASSYをまとめて買おうとして、ためらって、考えて…結局買いました。なんというか、我ながら赤裸々すぎないか、特にCLASSY混ぜてるあたり欲深すぎないか、しかしこれを除いたらタラレバにひとり温泉て凄まじくないか、ていうか一気に買いすぎじゃね?あたりを思考が巡ったのですが、買ってやりましたさ。

近頃は「おひとりさま本」が妙に増えてる気がして、それもさほど特殊な装いじゃないというか…市民権を得ている感じが、うれしさ半分怖さ半分です。ひとりごはん、ひとり京都、ひとり東京にひとり温泉。気づくと私の書棚にもおひとりさま達がいらっしゃいます。雑誌は憧れの写し鏡であり、決して私を体現するものではありません。孤独ならせめてひとり上手であれという、孤独に向き合う真摯な姿勢を買っていただきたいものですね。ただし、根本的な解決からは遠のく一方です。

 

ベストセラー「負け犬の遠吠え」を読んだのはたしか社会人になって間もない頃(手元の文庫本が何版かで判断するに)。読んだときは自分の負け犬属性にびびったものの、まだ実感のわくものではありませんでした。てゆーかむしろー、トレンドをキャッチするためのひとつのツール、的な? 駆け出しのプランナー女子は世の中のトレンドを把握することに燃えておったのですよ。全然おしゃれじゃなくて、だっさかったのに。(あっ今絶対イヤ汁出てるわ)

おひとりさま特集に囲まれ出した昨今、ふと思い出して手に取り、読んで読んで、あっという間に読み終わりました。あぁ、酒井せんせい、あの頃予備軍だった私、立派な負け犬になりましたよ。せっかく指南していただきましたのに、情けないことです。いわゆる、気づいたらこうなってました、というやつです。

今まさに一軍へと昇格せんとする負け犬のわたくしより、せっかく本を読んだので学びをシェアしたいと思います。著書に書かれている「負け犬にならないための十ヵ条」「負け犬になってしまってからの十ヵ条」を転載しときます。読んで心に問うてくださいね。

 

「負け犬にならないための十ヵ条」

1 不倫をしない

2 「…っすよ」と言わない

3 腕を組まない

4 女性誌を読む

5 ナチュラルストッキングを愛用する

6 一人旅はしない

7 同性に嫌われることを恐れない

8 名字で呼ばれないようにする

9 「大丈夫」って言わない

10 長期的視野のもとで物事を考える

 

いやー、だめでしたね。3~6もだめですけど、何より私、大丈夫を連発してましたし今もしてます。荷物誰にも運ばせません、はい。しかし、なっちゃったものは仕方ない。次いきましょう。

 

「負け犬になってしまってからの十ヵ条」

1 悲惨すぎない先輩負け犬の友達を持つ

2 崇拝者をキープ

3 セックス経験を喧伝しない

4 落ち込んだ時の対処法を開発する

5 外見はそこそこキープ

6 特定の負け犬とだけツルまない

7 産んでいない子の歳は数えない

8 身体を鍛える

9 愛玩欲求を放出させる

10 突き抜ける

 

こちらは結構いけそうです。先輩負け犬いるし、崇拝者はいないけど食事友達ならいるし。意外と地平が開けそうなのが10の突き抜ける、ですね。1から9が対症療法だとすると、10は体質改善って気がする。負け犬脱却にはらなそうだけど、やっぱさ、人として、負けたなりに勝ちたいじゃない?←何がなんだか。だから私、今年は突き抜けていこうと思います。その先に、何があるのかはわかりませんが…。

(引用すべて 酒井順子「負け犬の遠吠え」)

 

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

 

 

 

ドラマ「タラレバ娘」第一話を見た

漫画のドラマ化に過剰な期待をしないように、そっと見ました、第一話。もはやアラウンドでもないサーティの私の心の支えのような、戒めのようなポジションを築きつつある「タラレバ娘」です。このマンガ、読んでもダメージ食らうのに読んじゃう。巻末の相談コーナーなんて特にひどい。人にこれほどダメージを与えておいて、最後はフィクションらしく安易なハッピーエンドなんかにされたら…恨みます。こうなったからには、死なばもろともやで、あんた…!(この辺りのマインドセットが我ながら東村作品向きと思う)

 

で、ドラマでした。納得いかないことがあるんですよ。まずは、主人公が30歳。オリンピックの年には、33歳。さすがにオリンピックの頃までには結婚してるわよ…さもなくば、独りオリンピック…!と青ざめるシーンが何度か出てくるんですけど、いやもう私33歳だから。この漫画のいいところは、スタートが33歳ってとこだから!と現場からお伝えしたい。30歳は20代の延長線上、焦りはあるけどまだ綺麗。20代の記憶を引きずって生きていける歳です(これが後々の手遅れを招くのですが…あー、あのとき気づいてい“たら”!)。

絶対、33歳からの3年間のが重々しいはず。これからだから知らんけどたぶんそのはず。ドラマの主人公を未来の自分が今の自分に頑張れっていうような気分で見てしまって、すでにちょっと悲しい。私はこれをポストタラレバ娘の立場で見なきゃいけないのかしら。

 

もひとつ。人生の主人公は自分だと思ってた、つまりいつかはいい人が現れてハッピーエンドになるっていう思い込みが崩されるのも大事な要素なんですけど、吉高由里子、かわえぇ…!主役やあんた、間違いない。榮倉奈々、モテそう…!まぁ、テレビで可愛くない人見るのもつまんないですけど…なんか、みんなかわいいなぁって、思って…うう。しかし鈴木亮平をキャスティングすると、花子とアン感が強烈で、ついでに坂口健太郎登場でとと姉ちゃんも混じってしまい、ややこしい。“ブレイクしそうな芸能人を押さえるには朝ドラと大河で大体オッケー”説、私は信じてます。単に色々見るの面倒くさいだけですが。

という訳でちょっぴり納得いかないドラマ化ですが、坂口さん好きなので時間が合えばまた見ようかな。

 

さて、こんなことをブログで書かないといけないくらい、今や私の周りには未婚が減ってしまいました。もう第4出動はできません。いたら絶対してるなぁ怖いなぁ。独りオリンピックも、半ば覚悟しております。しかしながら、いろんな意味でひとりぼっちの境遇をあえて前向きに捉え(婚活に専念できる等)、フィクションの力を借りてでも、不肖33歳、そろそろバッターボックスに立たねばなりません。

※ドラマ見てたら、例えじゃなく普通にバッティングセンター行きたくなりました。あれ楽しそう!

隣の恋バナ

カフェなんかにひとりで入りますとね、隣の会話を聞くのが楽しみなんですね。我ながらよくない趣味だと思いながらも、気になるとますますそこの会話しか聞こえなくなりませんか(これをカクテルパーティ効果といいます)。

で、今日の会話はこんな感じ。カッコ内は私の心のつっこみです。

 

「私別に、ヤノさんと付き合いたいと思わないんだ。他に遊んでる人もいるし」

「そうなの?じゃあそっちと付き合えばいいじゃん」

「でもさー、他の人だとちょっと違うんだよね。やっぱヤノさんの方がしっくり来るって言うか」

「ふーん。彼女と別れてほしいと思わないの」

(あっヤノさん彼女いるのね…)

「思わないよ。そんなの彼女さんに悪いじゃん。どっちもお互いのこと好きみたいだし」

「ええー、大人ー。私だったら我慢できないー」

(ほんと、おとなー)

「彼女さんのこと傷つけるのは、ちょっとあたしは違うと思うんだよね」

「彼女さんは何してるの?どんな人?」

「なんかねー、すごい素朴な感じ。学生時代の知り合いで、四国(ヤノさんの地元らしい)で働いてるんだって」

「あ、遠距離なんだ」

(あー、遠恋。波乱の予感)

「うん、遠距離であんまり会えないから、ほぼ毎週私と遊んでるみたい」

(えっ、ヤノさん…?)

「なんかされたりしないの?」

「えー、真面目だからなー、一緒に寝たりしてるけど、特になにも」

「それ、友達なの…?」

「うーん、なんかね、全然ときめかないっていうか…いるのが自然な感じの人で。好きって言われたこともあるけど」

「??それ告白?」

「いや、友達としての好きって感じ。ほら私へこんでたときに慰めてくれて。そのときに色々構ってくれたから、彼女さんとちょっと揉めたみたいだよ。あ、私だってことは言ってないみたいだけど」

「じゃあさ、ヤノさんに他に好きな人できたら焦らない?」

「いや全然」

「でもさー、それ、友達じゃないでしょ」

「そっかなぁ。確かに周りの人は私のことヤノさんの彼女と勘違いしてて、ヤノさんの予定とか聞かれるんだよね」

「……」

(……)

「でもさー、私はやっぱり彼女さんのこと傷つけたくないし、ヤノさんが好きだから、ヤノさんには幸せになってほしいし…」

 

これは…好きな人の幸せを願って身を引く大人の女を装った、事実上の勝利宣言と見なしました。私あなたのこといいなと思ってるけど、他に誰かいるなら構わないわよ、でもほら、あなた気づいたら私と一緒にいるけどね?どうするの?っていう。最初は若人よ頑張れと思って聞いてましたが、途中から遠距離の彼女に絶賛同情。残念だけど、実質乗り換えられてますよお嬢さん。しかしヤノさんもそのどっちつかずはどうかと思うよ。全く知らんけど。

以上、現場よりお伝えしました。

大河ドラマが来週で最終回、だと…

再来週までやってくれているものだと信じておりました、なんとなく。無意識の希望的観測で。大掃除して、それと平行してビーフシチューをことこと煮込んで、赤ワインと一緒にドラマの最終回を見て、ああ今年も暮れるわねぇと、そんなクリスマスになるはずだったのに。。!もう終わっちゃうの、という悲しみと、じゃあ私クリスマス何すりゃいいのという(逆ギレによる)怒りがないまぜになって、要は困ってます。うん、本当に何すればいいんだろう。

たとえば、映画や芝居や漫画はある意味今を忘れるために存在するのであって、作り手には悪いけれども映画をはしごするか、DVDをまとめ借りするか、いっそ落語でも見に行けばやりすごせそうな気が。さすがに漫喫はやめておこうかな。なんだか心が荒れそうです。あ、あとはジムだな。筋トレしよう。なんか自分がというより場が荒んでそうだけど…そんなこと気にしてたら筋肉はつかんけぇのう!

まぁ、もうあんまり気にならないんですけどね、クリスマス。特に平日なら。嫌なのはどこに行ってもクリスマス気分が盛り上がってしまうことで、それ自体は楽しくて結構好きなのに、発散できなくてもやもやするという。もやもやイベントですね。このもやもや、大河あたりで発散するのがちょうどよかったのになぁ。

以上、なんの発展性もオチもありませんが、とにかく来週で最終回ですよ。今週はきりちゃんが報われて?よかったですね。ちゅーしながら文句言う大河のヒロインとはだいぶ珍妙な。笑いました。それで、10年くらい前が一番綺麗だったのにっていう台詞が、ちょっと沁みました。ぎりぎりアウト、気味のセーフかなぁ。

で、結局何が贅沢なんだっけ。

突然ですが、家の洗濯機に乾燥機ついてますか?僭越ながら、我が家にはついています。太陽光にさらせば自然に乾くものを、何も電力を使って日陰で乾かさなくても…という思いが捨てきれず、僭越すぎるということで滅多に使いません。これはこれでもったいない。で、タオルが溜まった週末、久々に稼働させてみたんですが…仕上がったタオルのふやけていること。へにょっへにょじゃないですか。あのお日様にさらされてぱりっとした姿はどこへいった、これだから最近の若者はぬるま湯で困る、とおっさんのように渇を入れたくなりました。ぱりぱりとへにょへにょ、タオルとしては一体どちらが正しい乾き方なんでしょうか。私はぱりっと派でいたいのですが、最近の洗濯事情ではデフォルト乾燥機とも聞きますし。

 

髪を切ってきました。少しウルフっぽいレイヤーを入れたボブにしたら、予想よりもほんの少し男っぽく仕上がってしまい、宝塚の男役に見えて仕方がありません。ガーリーなボブに頼りきりで、もともと男顔なのを忘れておりました。明るい茶髪か金髪にしたらまさしくって感じだなぁ。私らしいけど、残念ながら女らしくはない。ところで、私は髪を切った日は頭を洗わない主義です。昼間さんざんシャンプーされたからきっと清潔だし、サロンのいい薬剤の効能(そんなのあるのか知らないけど)がなくなるのがもったいない気がして。みなさんはどうですか。

どうも私にはこの日常やるべきことをやらないのを「贅沢」と見なす癖があり、週末の夜ご飯のあと、食器を洗わずにお風呂に入って寝てしまったりすると、ああ週末!と妙な解放感を得ます。あと、化粧水の後に塗る乳液やら何やらを塗らないで省略するのも「贅沢」。週末なんだからむしろスペシャルケアをしたらいいのに、作業を省くのを贅沢と見なすなんて、我ながらよほどの面倒くさがりなんでしょうね。

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を見てきた

ハンカチを忘れたことを少し気にかけつつ、レイトショーで見てきました。だって、泣けるとかラストが衝撃とか煽っているし、大泣きしたら帰りの顔がみっともなくなるし。そもそも、映画でよく見るこういう売り文句はあまり好きじゃないんですよね。泣けるって言われたら騙されるもんかと思うし、ラストが意外とか言われたら最初から推測してしまうし、ひねくれものとしては素直に楽しめなくなるじゃないですか。でもまぁ、そういうのだけじゃない、何だかよさそうな雰囲気と、間違い無さそうな配役の布陣に期待して、梅田ブルク7へ。

結論、確かにハンカチ必須なくらい泣けるし、ラストも衝撃っちゃあ衝撃ですが、そんな前評判を入れなくても十分いい映画でした。宮沢りえの説得力が素晴らしく、杉咲花の演技がとても魅力的で、私はラストよりも途中の方が感動しました。

※以下、ネタバレですよ※

まず、宮沢りえがとってもいい。それはなんでだろうと考えると、役柄に関係なく役者本人が持っている存在の確からしさ、その人が振る舞うことの説得力の高さなんじゃないかと思いました。だって、余命宣告された母親がばらばらの家族をつないでいくっていうストーリーですよ。ちょっと、ベタというかお涙頂戴というか。なのに、もし余命2ヶ月を宣告されたとして、宮沢りえなら確かにあんな風に死んでいくんじゃないかと思わせてくれる、その説得力がすごいなぁと。だから、この映画はまず母親役を宮沢りえがやったことが、一番の勝因なんじゃないかと思います。強くて愛情深い、完成された母親像なのですが、時折湯から吹き出すあぶくのように怒りが沸き上がります。その感情のバランスの危うさや、怒りの強さが鮮やかな赤の印象を残して、ああ、このお母ちゃんは特別仕立てだなぁと、思わせてくれます。「紙の月」を見たときにも思ったのですが、宮沢りえは美人なのに、年齢を重ねて‘よれた’雰囲気も持っていて、平凡な主婦や下町のお母ちゃんも意外に馴染みます。あんな風に年をとりたいなぁ、と思う人のひとりです。

そして、もうひとりの主人公といってもいいのが、娘役の杉咲花。学校での内気ないじめられっこの姿と、家でクックドゥばりにごはんをパクリと食べる姿のギャップに私は妙に生命力を感じてしまいました。心は悩んでも、体は正直な思春期の女の子です。そして、死んでゆく母と生き生きしていく娘、完全な母と不完全な娘という対比がとてもよかった。ゆっくり両者の役割が入れ替わっていく過程が、物語の核だと思いました。嗚咽というよりもっと不細工に、涙をぐふぐふ堪えながら言う台詞の数々にだいぶ泣かされましたねぇ。冒頭の「数えたら11色あった」っていう台詞も印象的ですが、何も知らないときに言った「お母ちゃんの遺伝子ちょっとはあった」っていう台詞、あとからの方がじんわり来ますね。

最後に肝心のラストですが、最初に言った通り前評判を聞いてしまっていたので、何となく推測がついてしまい、、衝撃には至らず。まぁ、湯を沸かすほどの熱い愛、だもんなぁ。前評判入れないでほしかったなぁ。でも、つい先日祖父を見送った立場から言わせていただくと、人の死に様というのはあんなに綺麗なものではないです。姿形はそのままでも、死んでいるだけでその人らしさがかなりの程度失われる気がします。じゃあ湯を沸かそうかって、簡単には思わないくらい‘その人じゃない’はずなんです。綺麗なお母ちゃんの遺体と祖父の遺体を思いだして、美しさは姿や形ではなく、生きているっていうこと自体によるんだなぁと、しみじみ思いました。でも、それでも、沸いたお湯と煙突からのぼる赤い煙を、愛と言わずしてなんと言いましょう。愛とは熱量である、だから、湯を沸かすのはひとつの愛情表現の行為であると、監督は言いたいのだし銭湯好きの私も言いたいのであります。。!

 

ともあれ、スクリーン上の人の死に涙を流せるのも、私が生きている証拠です。あぁ面白かった、予告通りガン泣きですがなと心でぼやきつつ、涙の筋が流れる顔もそのままに(暗いしまぁいいかと思って)自転車をこいで帰る金曜日の夜中でした。