心変わりのシミュレーション

シミュレーションかシュミレーションかって、いつもどっちか分からなくなりませんか。これで合ってますかね。

女35歳、ぶっちゃけ婚活中です。そういうことを人前で言えるようになりました。さすがに焦ってますね。ときどき、なんで結婚したいんだろう、それって必要?と思うことがあるんですが、我に返るにはまだ早い、と自分をたしなめています。こういうのは勢いが大事。だと思う。

本音を言うと、好きな人と付き合って、結婚したくなったらする、みたいなのが理想ですが、たぶん少なくとも5年は遅い。まーもうこの歳でそんな悠長なこともなぁ、結婚できそうかどうかでフィルターかけとかないと、とも思っており、具体的に考え出すと冒頭のそもそも論に戻りそうなので心の蓋をしています。

いよいよ本格的に親も焦りだし、母親だけでなく父親もはたと気づいたらしく、先日の家族旅行で「お前は一体いつまで親と旅行にいくつもりか」と真面目に聞いてくる状況。こちらは親孝行のつもりでしたが、いやぁ、逆でしたか。

という感じですので、友人知人があれこれと人を紹介してくれて、いつもありがたい限りです。結婚式を楽しみにしている、なんて言われるとちょっと夢が膨らみます。その後鏡を見てすごくプレッシャーを感じてますが。この歳でウェディングドレスはさすがにキツくないか…?ニーズはあるのか…?再び心の蓋をしましょう。今考えても100%意味がありません。ひとりウェディングっていう手もあるけど、これも少なく見積もって5年は以下略。

そんな中、しばらく気になっている人がいます。なんか気になるわぁ、と思って1年半くらい、全く進展していません。別にやましいことがあるわけではなく、プライベートの知り合いではないので、迷惑をかけたくない一心で「なんか気になる」ステータスを維持しています。

全ては一人相撲なのですが、これがまぁまぁ心理的にバランスを取りにくい。会う日はちょっとテンションが上がるので、前向きな気持ちで仕事に取り組めます。なんなら多少のお洒落や化粧を頑張ります。少しでも意識すると緊張するので、うまく説明したり、ややこしい依頼がしにくくなります。仕事に追われ始めるとそれどころではなくなり、かなり事務的な言い方で、面倒な依頼や急な相談をせねばならず、緊張感はなくなりますが、どう思われてるのか気になって後からちょっとへこみます。迷惑をかけてはいけないという義務感に、パワハラや逆セクハラへの不安感が加わり、軽い雑談や冗談を極力避けます。

結果的にこの上なくビジネスライクな関係性となっており、本音とはうらはらに仕事ばかりが順調に進んでおります。たしかに、今の私から仕事を除いたらほとんど何も残りません。だから結果オーライなのかもしれないけれど、試合に勝って勝負に負けてないだろうか、自分。先方の視界にも入ってなさそうなので、正直無理ゲー!と思いつつ期待を捨てられないのは、まぁ、やっぱり気になるんでしょう。仕事に前向きになる、お洒落を頑張れるというポジティブ要素だけを残して、他は処分せねばと思いつつ、ずるずるしてます。あくまで心の中で。

紫門ふみの恋愛についての有名な言葉で、男は絵画をかけ、女は音楽をかける、みたいなのがありますが、男女の違いは置いておいても、私にとっては確かに音楽かもねぇ、と思います。絵は1度に複数見れても、同時に何曲も聞くことは難しい。しかし、私はあえてそれにチャレンジしたい、いや、せねばならんと思うのです。本命を通奏低音に、サブを旋律においてひとつの音楽を奏でられないだろうか。そしていつの日か伴奏なしの主旋律だけで演奏が成立しないだろうか…!

なんか美しい例えにしてみましたが、要は恋愛気分だけをそのままに、恋愛対象を変えられないだろうか、ということです。せっかく紹介してくれる人がいるのだから、確度の高い方を採用したい。こちらに興味を持ってくれている人と付き合った方がよいに決まってます。

そうは問屋が卸さない、のが恋愛なんでしょうが、とりあえず付き合っちゃえば案外あっさり心変わりをするものでもあります。私の少ない恋愛経験からいっても、付き合えれば忘れられます。だからなんとか、今の物件数があるうちに、どうにかならないだろうか。自分を差し置き、偉そうな話をしていることは分かっています。しつこいタイプなので、そんなにすぐに気持ちは変わりません。あわよくば、とか、つい思います。でもなぁ、やっぱりそろそろ結婚したいしなぁ。彼氏のひとりいたってバチは当たらんだろうしなぁ。

誰に知られることもない一人相撲の果てに、心変わりのシミュレーションをしてみる最近です。

映画『アリー』を観てきた

占いによると私の2019年は「愛と創造の年」なんだそうです。そうだクリエイティビティを思い出すんだ、と言うことで年初からブログ再開してみます。年初というか、仕事始めね。

 

暮しの手帳に連載されている芝山幹郎さんの映画評を読み、評価がよければ大抵観に行くことにしています。この映画をボヘミアン・ラプソディの予告編で知ったときには、いやいや、ガガ様映画て、とつっこんで終わったのですが、芝山氏曰くベタを裏切る映像や俳優のリアリティとのことだったので、ちょっと興味がわき、結局観に行くことに。

ちなみにボヘミアン・ラプソディは機を逸しましたが面白かったです。ただ、私はクイーンを語るための言葉を持たないので、なんだかおおっぴらには話しにくい映画です。とりあえずアルバムぽちりました。聞けば聞くほどうっすらキムタクが浮かんでくるあたり(あのドラマ観てないんだけど)、所詮こんな世代よのう、と思います。

 

で、映画なんですが、思ったより面白かったです!王道といえば王道で、話に裏切られることはないのですが、変にナルシスティックでもなく、アーティストの二人の存在感、力量の確かさが真実味を与えるので、ドキュメンタリーがフィクションに編集されたような妙なあべこべ感を味わいました。すっぴんのガガ様も珍しくて、演技をしているスクリーンの中で素顔が分かるというのも、あべこべの面白さの一端かと。そんなに美人じゃない、と一緒に行った友達は言いましたが、私は綺麗だと思いました。意思が強くて賢そうでプライドも高そうな目や鼻が、そういう態度の女って嫌われるのよね、ということも見越して少しナイーブに揺れる感じに、何だか親近感を持ちました。演技なのかなぁ、素なのかなぁ。それが分かんないところが上手い映画なのかも。

で、そこへ来て圧倒的な歌唱力。何の説明もいらない歌声。話は大体分かったからとにかく早くガガの歌を聴きたかった、とやはり友人はのたまいましたが、それに関してはやや同意です。カントリー・ロックからポップスにバラードまで、歌が上手いって正義!その強さが恋人を追いつめてもなんら不思議ではない、と思える説得力です。シャロウの歌い出しなんてぞわっとしました。女の子が夢を追いかけて努力する姿にとにかく弱い。なんなんだおっさんなのか私。

そして、そんなガガ様に対して受け身の演技に徹するブラッドリー・クーパー。演技うまい歌もうまい監督もしてるのかかっけぇ、と才能を加味して私は彼にも感心してたのですが、あいにく既婚者の友人にはウケが悪く、あんな酒浸りとはさっさと別れればよかったのに、とのことで同意は得られませんでした。後から合流した友人の夫にも「泥酔して妻の大事なときに失態をおかすなんていけない。ましてやドラッグは犯罪である」とたしなめられました(この人は映画を見ていません)。うんまぁそうなんだけど。正しいのだけど。アーティストとして尊敬しながらも自分の存在が追い詰めてしまう最愛の人、てベタだけどなんか分かるやないか。見捨てられないじゃないかー。

でも私、未婚なので偉そうなことは言えません。そういうとこかも知れんぞ自分、と意識を改めておきました。

 

見終わったあとはシュラスコを食べに行ったのですが、我ながらナイスチョイスだったなと思います。肉感的な歌声の後に、リアルな肉がなんかぴったり。がっつり頂きました。所詮アジアの女なので、後でキャベジン飲みましたけど。

失恋で死ぬ人はあまりいないわけで

宇多田ヒカルの「Play A Love Song」にはまってしまって頭のなかでずっと鳴ってます。特に、キャンウィープレイア、ア、ア、って繰り返すところがもう何万回と。爽やかで調子がよくて、結婚式ソングにぴったりだなぁ、と思ってよく聞くと微妙な歌詞が何ヵ所かあり、さすが宇多田ヒカル一筋縄ではいかないな、と思ったのでした。“ぼくの親がいつからああなのか知らないけど、君と僕はこれからも成長するよ”、うん、リアルなだけに場がちょっぴり凍りそうだ。

「初恋」は、「SONGS」を見てすぐにアルバムをぽちっとするという、理想的なカスタマージャーニーを辿りました。番組のなかで宇多田ヒカルが、人にとって初恋は、つまり最初の恋の対象は親で、その関係性を結局歌い続けている、というようなことを言っていて、彼女の歌が好きな理由がとてもよくわかった気がしました。恋や愛を歌うことが、一番身近で一番よく分からない家族を知りたいという願いであるのなら、とても普遍的なことだなぁと。その普遍性に惹かれるし、ある意味落ち着くんだろうなと。ついでに、最近若いアーティストの歌を聞いても若いなぁとしか思わなくなる理由もちょっとわかった気がしたのでした。ヒトが性的に惹かれる異性に恋い焦がれられる期間は結構短く、ついでに対象は狭い。貴方に会いたくて死にそうとか、ふられたから死にたいとか、そういう気持ちは長続きしない。一方で、家族を思う気持ちは比較的長持ちするし、大体みんな持っている。その差かなあと。わ、若い子の感性についていけなくなった訳じゃないんだからね!とか強がっておきたいお年頃です。

ほぼ同い年(早生まれにつき一歳上という)のアーティストの活躍は、私にとって感性の試金石。まだ表現できる、まだ感じられる、という。あくまで理論的には。

花火の夜

今日の晩ご飯は残りもののキャロットラペ、ナン1枚、ミートソース0.5人前にチーズを混ぜて温めたもの。ミートソースをナンに乗っけて食べたら美味でした。キャロットラペは、聞こえはおしゃれだけれど、人参1パック3本を使いきれなかった時の救世主としてたびたび登場。千切り機でせっせと刻んでレモンやオリーブオイル、はちみつを混ぜたドレッシングに和えるだけの手軽さですが、どうぞクミンをお忘れなく。何気なくレシピに書かれたクミンシードを入れたら、あら不思議、一気にお店の味!おしゃれか!とつっこみたくなるくらい、洗練されます。キャロットラペのおしゃれ要素はクミンにあり。今日もぽりぽり食べながら独りごちました。クミン、やるなぁと。ちなみに人参消化レシピとしては、にんじんしりしりもレギュラーメンバー。こちらはごま油が決め手。卵も絡ませるのでタンパク質も取れる優れもの。

 

今日の大阪は天神祭でにぎわっていました。ついに迎えた3年目の夏。そしていつも花火は会社から眺めてる気が。淀屋橋の高層ビルから見る花火は少し下にみえ、祭りの喧騒をつい客観的に俯瞰してしまいます。にぎやかだなあ、人多いなあ、暑そうだなあ。分厚いガラス越しの花火は音がくぐもって、どんどんと低い音だけ聞こえるのが祭りの太鼓のようで風情があって私は好きです。クーラーの効いた明るいオフィスには似合う気がします。外で見るなら、じわぁという空の焼けるような音も好きですが。

うちの部には去年より大勢人が残っており、花火だ花火だとにぎやかだったのですが、個人的にはなぜか泣きそうなほどの寂しさにやられてしまって困りました。まともに花火を見ていると泣きそうで目を逸らすほどの。花火を一緒に見る人もおらず、毎年同じようなメンバーと残業している現実にがっかりしたのか、はたまた面白いイベントを見逃して悔しいのか。何か大事なチャンスをみすみす見逃したような焦りとともに、ぼうっと、窓の外を見ていました。

今すこーしいい感じの人が、送ったラインに気づきもせず未読のままなのが寂しさの原因かもしれない、と思いました。その人から返事がこなくて寂しい、という感情ではなく、こんなに花火が綺麗なのに誰もラインを送るべき人がいない、という身勝手な寂しさです。そして、返事の来ないラインにもう一件投稿するほどの勇気がない窮屈な性格も、少し寂しいのかも、と思いました。

「ファントム・スレッド」を観てきた

ダニエル・デイ=ルイス、俳優やめるってよ、でも話題になってる映画です。ネタバレです。

一言でいうと、独身貴族の超完璧主義者のデザイナー(ただし極度のマザコン)が、若い恋人とのすったもんだの末にその手に落ちる、というような話です。と、私は解釈しました。たぶんこれ、アルマの勝利ってことで良いんだよねと。

ダニエル・デイ=ルイスはこの映画を撮ってる最中にものすごく悲しい気持ちになって、俳優を引退することにしたんだそうです。でも素直に悲しい話ではない。母の面影を追ってドレスに依存するレイノルズと、自分の体型を認めてくれたレイノルズに依存するアルマは、ドレスを介してしか繋がっておらず、同じものを見ているようでまったく噛み合わない。いくらドレスを作っても母には会えないように、いくら体を差し出してもマネキンとしか思われないように、2人が何を捧げても欲しいものは手にはいらない。だから、もっと依存する。お互いの存在も、無くてはならないものになる。でも、人として向き合いたいアルマにとって、自分を見ないレイノルズは昼間の亡霊のようで、一方、レイノルズにとってアルマは日常を狂わせる凶器のようなもの。母の影を追い払うように得た妻だけれど、夢の中の母ではないから、自分の都合通りには動かない。音を立ててものを食べて、ダンスパーティーに行きたがる。パーティに行った妻を探しにいくシーンなんて本来はラブストーリーの真骨頂というか、仲直りフラグみたいなもんなのに、レイノルズにとっては日常を狂わせる悪夢のように描かれる。対するアルマも腕を組んで徹底攻勢の構え。アルマだってこの時すでに亡霊のようなものなのだ。ベルギーの王女への嫉妬(王女自身というより、その体への、と言ってもいいかもしれない)から、レイノルズに死なない毒キノコを盛った時から、彼への想いだけで生きている。体はもうとっくに明け渡した。残ったのは心だけ。

ねじれて、ねじれて、もう直接対決しかないところまで追い詰められた2人の最後のシーンが凄まじい。キノコを刻む妻の様子から、これは盛られてんなと気づく夫。夫の嫌いなバターをたっぷり入れる妻。キノコを炒め、卵を加えて、バターをもうひとさじ。むせ返るバターの香りに鼻を覆う夫。笑顔で差し出す妻。その顔を凝視しながら、いっそ挑戦的にキノコオムレツを食べ、噛みしめてみせる夫。あなたは弱ってる方がいい、と微笑む妻。もう首まで浸かってる沼に、頭の先まで浸かってみせた夫に、笑顔で一緒に飛び込んでみせる妻、と言ったところ。倒れる前にキスをねだる夫の台詞は敗北宣言。と同時に、妻を縛る呪文。

このどうにもならない2人の関係を指して悲しい、というなら、確かに悲しい。ひとりの天才が壊れて、ひとりの女性が壊れる。そのきっかけが、愛なのかどうかもよく分からない。

しかし、このレイノルズが格好良くて、ものすごく人として駄目。恋人としては恐ろしくおススメできない。でも格好いい。60歳くらいなんだが。そしてドレスはもちろん、映像も音楽も非常に端正で美しいので、結局、う、美しさは正義!という気持ちになり、なんだか2人の関係が究極の愛っぽい気がしてくる。これは結構、トンマナの勝利ではないかと思いました。

ところで、おとぎ話のお姫様はその美しさで王子様のキスを得るのに、王子様は美女と野獣とか、カエルの王子様とか、妙な格好で同情?を集めることが多い、気がする。これは、男は見た目ではないよ、という教訓を我々に授けてくれているのか、はたまたやばい奴も付き合ってみれば運命の王子様かもよ、ということを唆しているのか。キスをして満足げに寄り添う2人を観ながら、うーん、まあ、どっちもどっちだな、と思いました。

ともあれ、非常に面白くて、痺れる映画でした。もうすぐ終わりそうですが、おススメです。

 

「人体展」@科学博物館に行ってきた

もう終わった展覧会について話す不躾をお許しください。

 

宇多田ヒカルじゃないけれど、去年より面倒くさがりになってる気がする今日この頃。

久しぶりの平日休みを東京で過ごすことにして、でも人との約束は夕方以降。外は朝から雨。こんな時にとりあえず展覧会ポータルサイトを開いて物色できるのは、若い頃にあちこちマメに巡ったおかげだなあと思うのです。まあ暇だったからなんだけど、昔取った杵柄ということに。

上野の科博の催しが面白そうだったので行ってみることにしました。

 

平日とはいえ会期終わり直前、混雑してるとは聞いていましたが、結構ぎゅうぎゅうでした。臓器について知ろうなんてさほど間口の広い展覧会とも思えないのですが、なんだか最近、こういうのに行くと人々のにわか学習熱を感じてしまいます。知ってるとなんかすごいぜ俺、映えるぜ、的な。写真が撮れるっていうのもポイントのような。確か血管から始まって、最後は遺伝子まで、順々にこれまでどうやって仕組みが解明されてきたかという歴史と、仕組みそのものの説明、リアル臓器の展示、がセットになってる感じです。

個人的に面白かったのが円形の闘技場のような解剖教室。珍しかった解剖の授業はよく見えるよう階段状に席が設けられ、一般の人にも有料で公開されたんだとか。教室や人の衣装の装飾的なデザインと解剖の対比がゴシックホラーぽいというか。伊藤計画の小説にこういうのはなかったっけな。

もうひとつ、神経系のところで神経細胞を染色して構造を把握する、みたいな手法があって、それを使って神経の仕組みを解明したり、平面化した図を作るのに一生を捧げた科学者がいたりするわけです。平面化した図というのが弱々しいジャクソンポロックの絵みたいな感じで、実に何ともよう分からんのです。そして、神経での刺激の伝わり方が断続的なのか繋がった仕組みなのか、みたいなことで論争していた2人の科学者がいたらしいんです。細かいことも肝心の結論も忘れたんですが、2人とも死んだ後に、どっちが正しいか結論が出たらしいんですね。こういう科学論争の決着って、当たってた片方にとっては名誉ですが、残りにとってはもうなんか、慰めの言葉もないというか。だって職業人生のすべてをかけて、その道の権威に昇りつめて、なんなら弟子とか生徒とかいて、でも間違ってるんだもんなぁ。当たってる方が性悪だったら同情されただろうな。反対に、外れた方が人望なければ叩かれただろうし。と、科学の歴史よりも、2人の職業科学者の決着に想いを馳せてしまったのでした。こればかりは天啓というかセレンディピティというか、事実に選ばれるもんなんだろうな。そして2人の周囲には論争に加わることもできなかった屍が数えきれなくなるほどあるはずなのです。

 

そんなことをつらつら思った展覧会でした。

大阪の地震は死者3名、と1匹(たぶん)。合掌。

地震来ましたね。近畿地方の皆さま無事ですか。あと通勤通学お疲れ様でした。

私は今朝すこし早く出社しようと、余裕ぶっこいてチャリ通、と思ったら駅前に忘れてた自転車が昨日撤去!

失意のままタクシー拾おうとしたら大阪中のタクシーが賃走。絶対。賃走のタクシーしか来なくて遅刻するっていう夢みたいだ、とか思いつつ小走りで会社へ。この辺りですでに判断間違ってるんですが、5分前に滑り込んだオフィスビルの入り口で、そりゃそうですよね。

「現在エレベーターは止まっておりますので、階段をご利用ください」

この時点で汗だくの私です。じゅ、18階かあ。くらくらする。それより遅刻だこれは、とまだ呑気に思いつつさらに汗まみれで昇ること10分。オフィスついても誰もおりません。真っ暗で、席にいたのは約40人中4人。

そうか。無理やり自力で出社したけど、なんかみんないるもんだと思ってたけど、そもそも移動自体無理な人が大勢いるんだった。そもそも1人じゃ仕事にならんのだった。災害時の根性の出し方が根本的に間違っています。そしてすでに汗臭い。仮にも女性が発してはいけない臭いを醸し出しています。LINEを見れば同じ徒歩圏内の後輩女子たちはビルの1階や自宅に待機しているそうな。そうだよね、普通昇らないよね。昇ってきた面々は早朝出社組か、体力自慢の方々のみ。そのどちらでもないギリギリ駆け込み組の私は、日々遅刻を恐れるあまり何が何でも出社せねばならんと思ったのでした。

しかし、見ようによっては選ばれしもの感もなくはないぞ。ほら、ドラゴンボールの界王さまのところみたいな。天上っぽさがあるというか。それなら仙豆ほしいけど。

出社して約30分。出社していない部長からのお達しにより、集まった猛者?達もあっけなく自宅待機に。その後も交通が麻痺していたので賢明な判断と言えるでしょう。聞いて、1人が微妙な顔をしました。まだ汗が止まらずよく分かっていない私にぼそっと、

「つまり今度は降りるってことですよね」

18階アゲイン。まあこれも天下一武道会への布石と思えばね!修行あるのみですよ、ええ。

(幸いにも?仕事が溜まっていたので、エレベーター復帰を待って帰宅しました。)

災害時の判断ミスが招いた悲劇でした。

 

もう一つ悲しい話を。

マンションを出る前、非常階段を降りたところで、女の子が猫を抱えて泣きじゃくっていました。見ると、猫は耳や口から血を流して目も虚ろな様子で、かなりまずそうです。大丈夫?病院は?と話しかけると、泣きながら電話をかけており、こくこく頷きますが言葉にならない。

地震でパニックになって、高層階から落ちたのかもしれない、と思いました。あるいは何かに挟まったか。猫はパニックになるとやみくもに走って危険を察知できなくなることがあります。私も子供の頃に交通事故で猫を亡くして、あの賢かった子がなんで、と悔しくて悲しかった。

女の子は猫をかかえ、電話をしながら非常階段を昇っていきました。かわいそうに、かわいそうに、でもまだ8時、動物病院が開いている時間ではありません。気になったものの、会社へと向かいました。

あの猫はどうなっただろう、女の子はどうしただろう。救急の病院を探して手配するくらいの手伝いをすればよかった。どうせ会社に行ったって意味はなかった。あの様子じゃ助からなかったかも知れないけれど、せめて病院くらい。

人があんな様子だったら真っ先に119番をしたと思います。放っておくなんてあり得ない。なぜ犬や猫に救急車はないんだろう。あの子の嘆きようは、人が怪我をした時と何も変わらなかった。傷つくと同じくらい悲しむ対象なのに、なんで救う手段がすくないんだろう。小さな車でいいから、来てほしい、猫の救急車。どんな悲しい出来事でも、最善を尽くしたと思わせてほしい。

幸いにも私もうちも無事で、先述したような間抜けっぷりも披露できるのですが、災害の時には、人以外の小さな生き物が被害に遭っている可能性を忘れちゃいけないなと、思いました。

だから今日は、亡くなられた3名と1匹以上の、ご冥福を祈りたいです。