「人体展」@科学博物館に行ってきた

もう終わった展覧会について話す不躾をお許しください。

 

宇多田ヒカルじゃないけれど、去年より面倒くさがりになってる気がする今日この頃。

久しぶりの平日休みを東京で過ごすことにして、でも人との約束は夕方以降。外は朝から雨。こんな時にとりあえず展覧会ポータルサイトを開いて物色できるのは、若い頃にあちこちマメに巡ったおかげだなあと思うのです。まあ暇だったからなんだけど、昔取った杵柄ということに。

上野の科博の催しが面白そうだったので行ってみることにしました。

 

平日とはいえ会期終わり直前、混雑してるとは聞いていましたが、結構ぎゅうぎゅうでした。臓器について知ろうなんてさほど間口の広い展覧会とも思えないのですが、なんだか最近、こういうのに行くと人々のにわか学習熱を感じてしまいます。知ってるとなんかすごいぜ俺、映えるぜ、的な。写真が撮れるっていうのもポイントのような。確か血管から始まって、最後は遺伝子まで、順々にこれまでどうやって仕組みが解明されてきたかという歴史と、仕組みそのものの説明、リアル臓器の展示、がセットになってる感じです。

個人的に面白かったのが円形の闘技場のような解剖教室。珍しかった解剖の授業はよく見えるよう階段状に席が設けられ、一般の人にも有料で公開されたんだとか。教室や人の衣装の装飾的なデザインと解剖の対比がゴシックホラーぽいというか。伊藤計画の小説にこういうのはなかったっけな。

もうひとつ、神経系のところで神経細胞を染色して構造を把握する、みたいな手法があって、それを使って神経の仕組みを解明したり、平面化した図を作るのに一生を捧げた科学者がいたりするわけです。平面化した図というのが弱々しいジャクソンポロックの絵みたいな感じで、実に何ともよう分からんのです。そして、神経での刺激の伝わり方が断続的なのか繋がった仕組みなのか、みたいなことで論争していた2人の科学者がいたらしいんです。細かいことも肝心の結論も忘れたんですが、2人とも死んだ後に、どっちが正しいか結論が出たらしいんですね。こういう科学論争の決着って、当たってた片方にとっては名誉ですが、残りにとってはもうなんか、慰めの言葉もないというか。だって職業人生のすべてをかけて、その道の権威に昇りつめて、なんなら弟子とか生徒とかいて、でも間違ってるんだもんなぁ。当たってる方が性悪だったら同情されただろうな。反対に、外れた方が人望なければ叩かれただろうし。と、科学の歴史よりも、2人の職業科学者の決着に想いを馳せてしまったのでした。こればかりは天啓というかセレンディピティというか、事実に選ばれるもんなんだろうな。そして2人の周囲には論争に加わることもできなかった屍が数えきれなくなるほどあるはずなのです。

 

そんなことをつらつら思った展覧会でした。